東京高等裁判所 昭和37年(ネ)2151号 判決 1964年2月21日
控訴人 大山トミ
被控訴人 渡辺富美子
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し原判決別紙目録記載の建物のうち別紙図面赤斜線表示部分を明け渡し、昭和三六年七月一日以降右明け渡し完了まで一ケ月金一六、五〇〇円の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。訴訟費用は第一、二審共控訴人の負担とする。」との判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張及び証拠関係は、
控訴代理人において、
「一、訴外小松寛は本件家屋から退去した際控訴人に対し暗默の間に本件家屋の賃借権を放棄もしくは本件家屋賃貸借契約解除の意思を表示したもので、その意思表示の効力は控訴人より訴外小松寛あての内容証明郵便が控訴人に返戻されたことにより控訴人が訴外小松寛の本件家屋退去を知つた昭和三六年六月二七日に発生したものと解すべきである。
二、賃借権は賃料支払義務を伴うとはいえ、一般の権利と同様放棄し得ないわけはない。訴外小松寛の本件家屋賃借権放棄により控訴人は何等利益を害されないのであるから、右賃借権の放棄は有効である。
控訴人は何等利益を害されないのであるから、右賃借権の放棄は有効である。
三、仮に訴外小松寛が賃借権の放棄又は賃貸借契約解除の意思表示をしなかつたとすれば、控訴人は本訴において訴外小松寛との本件家屋賃貸借契約を解除する。すなわち、賃貸借契約は賃貸人賃借人双方の信頼関係を基調とするものであるところ、訴外小松寛は被控訴人に情人ができたのを憤慨して、被控訴人との内縁関係を絶つて本件家屋を立去つたにもせよ、将又借金の支払に窮して姿をくらましたにもせよ、いずれにしても控訴人としてはかくも家庭内は風紀が乱れ、財産状態もまさに破産に瀕しようとし、貧窮の境遇にある訴外小松寛をなおも信用し、これと賃貸借契約を継続することは不安で到底その痛悩に堪えられないことは一般社会の通念であつて、かかる痛悩を控訴人に強いることは民法第九〇条にいわゆる公序良俗に反するものである。かかる場合賃貸人は直ちに賃貸借契約を解除しうるものと解するのが妥当であるから、控訴人は本訴において賃貸借契約を解除する。
四、仮に控訴人と訴外小松寛との本件家屋賃貸借契約が存続しているとしても、被控訴人と訴外小松寛との内縁関係が解消した以上、被控訴人の本件家屋占拠は控訴人に対する関係においては不法占有である。」
と述べ、
被控訴代理人において、
「控訴人の右主張事実はいずれもこれを争う」
と述べ、証拠として<省略>と述べた外、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。
理由
一、本件家屋が控訴人の所有であること、被控訴人が昭和三六年七月一日以前から現在に至るまで本件家屋に居住し、本件家屋を占有していること、控訴人と訴外小松との間に本件家屋の賃貸借契約が昭和三一年七月二一日から昭和三七年六月三〇日まで存在し、その契約内容が控訴人主張のとおりであつたこと、被控訴人が昭和三五年一〇月頃まで訴外小松と内縁関係にあり、訴外小松の本件家屋賃借権に基いて本件家屋を占有していたことはいずれも当事者間に争いがない。
二、控訴人は訴外小松は本件家屋の賃借権を放棄したから、これにより控訴人と訴外小松との賃貸借契約は終了したと主張するので考えるに、控訴人のいう賃借権の放棄とは賃借人の一方的な意思表示により、賃借人が賃貸借契約における賃借人の地位を失い賃貸借契約がそれによつて終了することをいうものと解せられるが、賃借人は目的物を使用収益する権利(いわゆる狭義の賃借権)のみを有するのではなく、その対価として、賃料を賃貸人に支払う義務を有し、又、目的物を善良なる管理者の注意をもつて保管する義務を有するのであつて、特に賃料請求権を賃借人の都合のみで突然失わされることは賃貸人にとつて不利益なことであるから、かゝる意味における賃借権の放棄は特に契約当事者間に特約のない限りなし得ないものと解するのが相当である。けだし民法は賃貸借契約当事者は期間の定めのない場合もしくは期間の定めがあつた場合でも、解約権を留保している当事者は何時でも解約の申入をなし得るものとし、右解約の申入は特約のない限り、解約を申入れたときから建物については三ケ月を経過したときにはじめて賃貸借契約終了の効果を生ずるものとし、この規定は賃借人の側よりする解約については借家法等の特別法によつても何等修正されていないのであるから、別段の特約のない場合、賃貸借終了原因として民法の解約の規定による外に、賃借人の賃借権放棄を認める必要は存在しないからである。よつて賃借権放棄による賃貸借契約終了の主張は主張自体失当である。
三、次に控訴人は訴外小松は本件家屋賃貸借契約解約(控訴人は解除というが解約の趣旨と解すべきである。)の申入れをした、と主張するので判断する。訴外小松が右賃貸借契約解約の明示の意思表示をしなかつたことは控訴人も認めることころであり、かかる明示の意思表示を認めうる証拠は全く存在しない。そこで訴外小松が暗默の内に解約の意思表示をしたかどうかについて考えるに(控訴人が解約の意思表示が効力を発生したと主張する昭和三六年六月二七日はいまだ賃貸借契約期間内であつて、賃借人に解約権が留保されていたことの主張がないから民法の規定によれば賃借人たる訴外小松は解約権がないわけであるが〔民法第六一七条、第六一八条〕本件においては賃貸人が自ら解約の申入があつたと主張しているのであるから控訴人の主張は、解約権のない者のした解約として無効を主張せず、賃貸借契約期間中における賃借人の解約権を認める趣旨と解すべきであろう。)成立に争いのない甲第二号証の一のイないしホ、甲第三号証、甲第四号証、原審における控訴人本人尋問の結果により全部成立を認めうる甲第二号証の一のへ(郵便官署の作成部分については成立に争いがない。)甲第二号証の二、原審証人佐藤勇夫の証言、原審及び当審証人小松寛の証言、原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果によれば、(1) 控訴人が昭和三六年五月二九日訴外小松にあてゝ発送した本件賃貸借契約更新拒絶の内容証明郵便が転居先不明の理由で同年六月二七日控訴人に還付されたこと、(2) 訴外小松は昭和三五年一〇月二一日本件家屋から横浜市中区花咲町二丁目六六番地に転出した旨、更に昭和三六年四月二一日同市同区黄金町一丁目五番地に転出した旨住民登録をしたこと、(3) 被控訴人は昭和三五年一〇月頃から以後第三者に対し「訴外小松とは別れてしまつた。訴外小松は本件家屋には住んでいない」と言明し、訴外小松あての郵便物の受領を拒んでいたこと、控訴人が昭和三六年八月三一日本件家屋に対し仮処分の執行をした際、被控訴人は執行吏や本件控訴人訴訟代理人に対し、本件家屋には訴外小松は同居していない趣旨のことを言明したこと、(4) 訴外小松は昭和三五年一〇月頃からは本件家屋以外の場所で寝泊りしていたことは認められるが、成立に争いのない乙第一号証の一ないし三によれば本件家屋の賃料は昭和三六年」六月分まで控訴人に支払われ、控訴人は異議なくこれを受領していることが認められるのであつて、右賃料の支払が訴外小松の意思に反して被控訴人が勝手にしたものであると認めうる的確な証拠は何等存在しない。かえつて、前記証人小松寛の証言及び被控訴人本人尋問の結果によれば本件家屋の賃料は昭和三三年四月以後被控訴人が本件家屋で営んでいる洋裁業の収入から訴外小松の名において控訴人に支払つているが、訴外小松はこのことを承知しており、いまだかつて反対したことのないことが認められるから、被控訴人と訴外小松との内縁関係が解消していたか否か(この点は後に判断する。)は別として、被控訴人の本件賃料の支払は訴外小松の代理人として適法になされていたものというべきである。かように訴外小松が賃借人として引続き賃料を支払つている以上、前記(1) ないし(4) の事実をもつて、訴外小松が控訴人に対し、默示的に本件家屋の賃貸借契約解約の申入をしているものと解する余地は全くないといわなければならない。けだし一方において賃料を支払いながら他方において暗默に賃貸借契約解約の意思表示をするというがごときは矛盾も甚しく、意思表示の解釈、特に默示の意思表示の解釈として到底あり得ないことだからである。してみると、訴外小松の賃貸借契約解約申入により本件家屋の賃貸借契約が終了したという控訴人の主張は理由がない。
四、控訴人は予備的に本訴において訴外小松との賃貸借契約解除の意思表示をしたと主張するが、控訴人は本件家屋の賃借人は訴外小松であると主張しながら本訴において賃借人でない被控訴人の訴訟代理人に対し賃貸借契約解除の意思表示をもつても、訴外小松に対する賃貸借契約解除の意思表示がなされたことになり得ないことはいうまでもないところであつて、それによつて本件家屋の賃貸借契約が解除とならないことは勿論であるから、控訴人の右主張は解除理由として控訴人主張の事実の有無や、それが解除の理由たりうるか否かについても判断するまでもなく、失当である。
五、控訴人は仮に訴外小松との本件家屋賃貸借契約が存続しているとしても、被控訴人と訴外小松との内縁関係は既に解消しているから、被控訴人の本件家屋の占有は不法占有であると主張するので、この点について判断する。原審及び当審証人小松寛の証言ならびに原審及び当審における被控訴人本人尋問の結果によれば、訴外小松は法律上の妻が現に存在しているのに、昭和二五年頃から右事実を承知している被控訴人と事実上の婚姻生活を営んでいるものであることが認められるのであつて、固より習俗的な結婚式を挙げて夫婦生活を始めたような事実も認められないのであるから、内縁関係といつても、けじめのついた夫婦関係ではなく、単なる継続的な性的結合関係というべきであるから、その初めが不明確であるのと同様にその終りも不明確とならざるを得ないのであつて、外部からは容易にその実体を窺知し難いものといわなければならない。しかして、前記証人小松寛及び被控訴人本人はいずれも訴外小松と被控訴人は今なお内縁関係を継続していると供述しているのであつて、右供述が真実に反しており、既に被控訴人と訴外小松との内縁関係が解消していると認定できる程の証拠は全証拠を検討しても存在しないといわなければならない。すなわち既に三において認定した(1) ないし(4) の事実や原審証人佐藤勇夫、同富川近子、当審証人富川近子同大川たか江の各証言により認定できる(5) 被控訴人は昭和三五年一二月頃から昭和三六年九月頃まで本件家屋の近くにある「あずま荘」なるアパートの一室を借受け、そこに寝泊りしていたが、そこには木村なる男が来て、被控訴人と一諸に泊つたことがあつた事実(この点について被控訴人は原審及び当審において木村と一緒に右アパートに泊つたことはないと主張するが信用できない。)は被控訴人と訴外小松との内縁関係が既に解消しているのではないか、と疑わせるものであるが、成立に争いのない乙第六ないし第九号証、前記証人小松寛の証言及び被控訴人本人尋問の結果によれば、訴外小松は本件家屋において靴販売業を営んでいた(この点は当事者間に争いがない。)が昭和三二年頃から債務に苦しみ、右営業も廃止し、被控訴人も訴外小松の債務を保証した関係で、差押を受けたこともあつたこと、訴外小松は多いときには一五〇万円位の債務を有し、現在もなお一〇〇万円位の債務があることが認められるのであるから、右(1) ないし(4) の事実は右証人小松寛や被控訴人本人の供述するように債権者の追及を免れるために訴外小松と被控訴人が相談の上でしたことであると認められないわけではないし、右(5) の事実も被控訴人と訴外小松との内縁関係が既に認定したようなものであつて、両名とも性道徳的に潔癖であるとはいえないのであるから、右(5) の事実があつても、なお両名の内縁関係は継続しているということも充分考え得るところである。その他控訴人援用の全証拠をもつてしても被控訴人と訴外小松との内縁関係が既に解消していることを認定するに充分ではない。かえつて原審証人佐藤勇夫、原審及び当審富川近子の証言、原審における控訴人本人尋問の結果によつても、訴外小松は昭和三七年二月二八日本件家屋に帰つていたこと、訴外佐藤勇夫が控訴人の代理人として被控訴人に本件家屋の明渡しの交渉をしたところ、その後直ちに訴外小松が被控訴人と共に控訴人方を訪れ、控訴人に対し、本件家屋を引続いて賃貸してくれるように申出ていることが認められるのであつて、この事実と前記証人小松寛の証言及び被控訴人本人尋問の結果を総合すれば、訴外小松と被控訴人とは常に連絡できる状態にあり、訴外小松は時々本件家屋に帰り、被控訴人との内縁関係を継続しているものと認めるのが相当である。してみると控訴人の右主張も理由がない。
六、よつて、控訴人の請求を棄却した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないから、民事訴訟法第三八四条に則り、これを棄却し、控訴費用の負担につき同法第九五条、第八九条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 牛山要 田中盈 岡松行雄)